仏教は奈良時代に国家宗教の地位を獲得することになったが、この時代の様々な史実は、歴史的にみて仏教がいかに重要であったかをよく示している。日本の宗教文化が主に仏教の影響を受けたことは、近代までの多くの文学、絵画資料からも知ることができる。しかし奈良時代には、天皇を「生ける神」とみなす宮廷儀式も生まれたのである。支配者層に属する貴族たちも、自分たちの祖先を神として祀る儀式を執り行っていた。つまり、土着の神々(カミ)は仏教が日本人の宗教的観念の世界に取り込まれたあとも依然として存在し続けていたが、ブッダを頂点とする仏教的宇宙観の中で、インド、中国、韓国の神々との共存関係にあったのである。

ではいったい「神道」は、日本人の信仰や宗教的実践の混合形態、いわゆる神仏習合においてどのような関係性をもっているのだろうか。どのような理由で、今日の日本には仏教と神道という二大宗教があると言われるようになったのだろうか。また、神道が独特な宗教形態として認識されたことはあったのか、あったとすれば、それはいつのことであったのだろうか。土着の信仰形態と外的な信仰形態のあいだの矛盾について考察されたことはあったのだろうか。仏教と神道の間の宗教的対立はあったのだろうか。以下に紹介する専門的な個別研究においては、このような主要な問題点を様々な角度から考察している。

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 神話


神話的な年代記である『古事記』(712年成書)や『日本書紀』(720年成書)は長らく、極めて古い口頭伝承の証拠であるとみなされてきた。そのような古典的な神話が、当初は流動的な形成過程にあった組織体系を正当化するのにどのような役割を果たしたのか、またそれに応じてどの程度「新たに考案された」のか、というような問題を体系的に考察する研究が行われるようになったのは比較的最近のことである。


八幡 — 日本独自の神の変態


日本の神である「八幡神」が文献上初めて言及されるのは8世紀前半のことであり、日本列島の南西部に位置する九州の地域的な神として現われる。 その後、巨大な毘盧遮那仏で有名な奈良の東大寺の建設にともなって、八幡神(宇佐八幡)は750年頃にこの仏教寺院の守護神とされた。宇佐八幡の分霊された末社が東大寺に隣接する形で建立された。これによって八幡神は、急速に、日本で最も人気のある神々に加えられ、発展していった。八幡神は、天皇家の祖先神をはじめ、託宣の神、大菩薩、源氏一族や武家の守護神・祖先神、日本の海賊(倭寇)の庇護者、戦争の神、そして数多くの農村の神々となった。今日、二万社以上の八幡神社が存在し、その数は日本の神社全体の四分の一を占めている。しかし欧米においては、八幡神についての体系的な研究はほとんどなされていない。それは明らかに、八幡神の起源がはっきりせず、融合的な性格の強いことに由来している。歴史的に見ると、八幡神はとりわけ初期の日本仏教に大いに利用されながら、仏教と神道のいずれにも明確に帰属させることはできない神である。

本プロジェクトは、八幡神の相互に矛盾する側面を分析・特定し、様々な宗教組織や社会集団と関係づけることによって、その通時的展開や共時的影響関係を明らかにすることを研究目的としている。その場合に用いる文献資料は、史書や文学、そして絵画に及ぶ。考察対象となる時代は、主に前近代まで(つまり1868年まで)であるが、特に古代・中世の説話や寺社縁起を研究の主たる対象としている。


吉田神道


本プロジェクトは、室町時代後期の15世紀に誕生した吉田神道を中心に、神道の歴史について上に述べた諸問題を考察することを目的としている。吉田神道の思想史上の意義は、吉田神道が教学と祭祀儀礼をはじめて整合性のある体系として発達させ、それを「神道」と表現し、仏教に対する自立性を強調したという点にある。つまり、そのシステムによってはじめて仏教から独立した神道という宗教を想像できるようになったのである。このような吉田神道の方向性は、その基調を示す「神々の唯一の道」(唯一神道)と称された。

しかしながら、吉田神道はアジアの宗教的通念から逃れることはできなかった。吉田神道もまた、アジアのすべての宗教的・哲学的な組織体系はもとは一つであった、つまり、同一の魂から誕生したものであるという「三教一致」(儒・佛・道、或いは、儒・佛・神)の思想を共有した。したがって、吉田神道の教学は雄弁な教条主義と実際の寛容主義との間の緊張関係のうちに成り立っている。そこでは、前者が目的として追及されながら、結果として後者が実現されることになった。今日的視点からみると、吉田神道は、中世に支配的だった仏教的世界観と江戸時代の「純粋神道」の重要な接続点となっていたといえる。